まず、「客観的に存立する規範」を、ここでは「法」と呼んでいます。これは、「公共的な社会の外的な枠組み」であり、これがないと「人間的社会の存立が危うくされる」ので、「きわめて重要な人間生活の基盤」であると考えられます。しかし、「こうした実定的な法が、つねに正しいとは限らない」わけです。実際、ヨーロッパやアメリカの歴史をみても、「既存の法的秩序への大規模な反逆のうちから」、「現代の自由主義と民主主義の精神は発祥した」といえます。
次に、道徳は、ここでは「人間の内面から、あるべき人倫の規範として自覚されてくる、内的立法の根拠、もしくは人間の行為を主導すべき根本的な信条のこと」と定義されます。この道徳が、「法に、その存在根拠を与えるもの」であると考えられます。
しかし、さらに掘り下げると、「人間の道義が成り立つのは、その根底に、」「存在の理法の自覚があるから」であると考えられます。ソフォクレスの『アンティゴネ』の中の、国王の禁令を犯しても「神のおきて」に従うのだといって兄の遺体を埋葬して死刑になったアンティゴネの行動にみられるように、「『神の掟』の自覚」あるいは「存在の理法の自覚」というものが人倫の掟の根底には現存していると考えられます。「およそ、道徳や規律や律法の成立の根源には、それが存在の定めである、という自覚がなければならない。存在の『定め(ネメイン)』のうちからこそ、『法(ノモス)』も生じうるのだと、ハイデッガーは指摘した」とされています。
(渡邊二郎『現代人のための哲学』ちくま学芸文庫198−202ページ参照)
法も秩序も、もとは神の掟から流れてくることをおもえば、神の掟に従おうとするキリスト者と、国家の存在は、ほんとに国家の法が存在の理法にかなったものであれば、けっして対立することはないのではないかなあとおもったことでした。皆様は、どうお考えになられるでしょうか・・。

