★ 「9条世界会議」のプレ・イベント「9条ピース・ウォーク」が出発。大きな組織で上からオーガナイズするのでなく、下から草の根で、みんなで苦労しながら輪をひろげていくことが趣旨だそうです。ガンジーのピースウォークのように大きなうねりになると良いですね!
「9条世界会議」記者会見 ダグラス・ラミスさんら訴え(JANJAN 2/24)
9条ピースウオーク広島出発(中国新聞2/25)
★ 「9条世界会議」呼びかけ人からのメッセージ
Why not 9?(堤未果)
Why not 9?(雨宮処凛)
Why not 9?(高遠菜穂子)
Why not 9? (成瀬政博)
★ 上の「9条世界会議」についての記事も、↓の根津さんらについての記事も、ひらのゆきこ記者がていねいに聞き書きしています。
君が代斉唱不起立「停職処分取消訴訟」傍聴報告(JANJAN 2/25)
★ 2006年3月に、職務上の義務違反による「懲戒免職」とは違う、「分限免職」(個人の責任を問うことなく公務員の身分を失わせて、公務全体の機能を維持することが目的とのこと…)という処分で東京都の中学校教諭をクビになった増田都子氏の近著:『たたかう!社会科教師』を読みました。本当に石原慎太郎都知事直属の東京都教育委員会は、めちゃくちゃアウシュヴィッツ的な場所ですね。増田先生の言い分を読むかぎり、全く理不尽な処分です。先生がおこなってこられた教育実践は、社会科の教員として模範的だと本当に思いますし、わたしが生徒だったころは、先生の授業内容と方法は賞賛されたと思います。しかし今、右翼的な都議や出版社と正面からぶつかると、大新聞やメディアは引いてしまうので、根津さんらよりも知名度も低く、孤立無援になってしまうのが残念。韓国では、テレビが何度も番組をつくったので、たいへん有名なのだそうです。真正面から言うべきことをズバリと言う「笑い上戸、怒り上戸、泣き上戸」の増田先生、心より応援します!
増田都子のホームページ



こんにちは。
冒頭に、まずお詫び・訂正があります。
以前(たぶん2月21日)コメントを入れさせていただいた折、「流れに棹をさす」の意味を誤用しました。本来の意味は
「棹をさすことにより、流れにより乗っていく」という意味でした。
私はコメントの文脈の中で、
「流れに流されるままでは危険だから、棹を指してちょっと立ち止まり、これでいのかどうか、少し考えてみませんか」
という意味で用いていました。
申しわけありませんでした。
さて、5月は9条世界大会ですね。
この3月に、私は韓国の学生さんたちに、日本の9条を紹介する活動をする予定です。
9条は、国内でもその内容の解釈が別れ、むつかしい部分もありますが、我々が人間という共通点をもつ以上、普遍なもの・真理は、やはりあるのではないかと考えます。良い発明は、それが「どこで発見されたか誰が発見したか」は問題ではないと思っています。
ところで、論座の3月号を読みました。
「死刑論議の病理」。多角的な説が書かれていて、非常に勉強になりました。
まだ残りお三方の論文を読んでいませんが、感想を。
最初の井上達夫氏の論証は、私はいいとは思えない箇所も含み
ますが、≪死刑制度を支持する国民が・・・死刑制度のメリットと
主張されるものを求めながらも、その倫理的コストは
死刑制度の適用・執行に携わる裁判官、法相、刑務官らに転嫁し、
自らの手を汚さずにすむ『倫理的安全地帯』に身を置いているから
である≫
の部分は、同意見です。
次の元刑務官である坂本敏夫氏の詳細な刑執行までの話は、
ぜひ、多くの方に読んでいただきたいものと感想いたしました。
法とはいえ、仕事とはいえ、刑の執行日は、だまして死刑囚を外へ
呼び出さねばならず(暴れたり騒いだりすると困るから)、
それまでの日々、人間同士として接してきた関係、
裏切る自分を責める気持ちなど、人を殺す役目を、人が担うことの
無理さがにじみ出ています。
12月の執行では、鳩山法相は、情報を公開しましたが、これを読むと、
そういうことが、「我々国民も手を下しているんだぞ」、という自覚を促すには
いいと思いますが、実際に実行する刑務官の方は、ご家族にも
言っていない方がおられるようなので、日時の公開は、そういう仕事を
受け持たれている方の、家族の団欒にも重苦しい影響を与えるのではと
想像しました。
その次に書かれた浜井浩一氏の内容は、データが出ていてとてもいいです。
広く知られていますように、無期は仮釈放で15年がせいぜい、ということも
最近では変化があるようで、無期は終身刑に近づいている傾向があるそうです。
また、死刑の廃止・存置についてのアンケートは、その質問の仕方を変えてみても、
「死刑廃止」を支持する人は現在のところ6%しかないそうです。
しかし、そこにはこのような付記がありました。
≪この世論が、死刑を取り巻く現実をほとんど知らされずに形成されたもの
であることは念頭においておく必要がある≫
軍隊を持つことも死刑を存置することも、
両方とも、もっと実情や問題点をよく知って、メリットデメリットを吟味して、
私たちが主権者の責任として考えねばならないことだと思いました。
ところで、≪この世論が、死刑を取り巻く現実をほとんど知らされずに形成されたものであることは念頭においておく必要がある≫というのは、その通りですね。あるジャーナリストの方が、「よく世論の8-9割は死刑賛成と言われるが、自分の講演で、死刑を取り巻く現実をビデオなどで紹介した後に、死刑についての立場を聞くと、賛成/反対は6/4か五分五分くらいになる」と言っていました。
ただ問題は、以前ご紹介した森達也さんが著書の「死刑」でもおっしゃっているように、日本では死刑に関して合理的議論を放棄して、もっぱら感情論として死刑を支持する人が多いと言うことです。実情を「知らない」だけでなく、「知りたくない」「知るのを恐れている」という面もあるような気がします。だから、合理的議論はもちろん継続すべきなのですが、その「感情的な面」にも、どうにかして切り込まなければいけないなあ、と最近思っています。そして、おそらくそういう仕事こそ宗教者の仕事なのかなとも思っています。
そういうわけで5月頃に、「死刑を止めよう」宗教者ネットワークで、森さんを呼んで、死刑の感情的な側面についてのセミナーを開きたいなと、今、考えているところです。
そう言われて一番思い出すのは、光市のご主人です。お顔がいつも険しく・・。その重い表情は、死刑が執行されることで変われるだろうか。死刑は彼の救いになるのだろうか。人生はこれからも長く・・。それにお写真の奥さまのお顔は、本当に純真なお顔でした。それがどうしても気になります。
そのように感情面のケアが必要なのはまず被害者家族だと思いました。森さんの本を読まないままに書いておりますので、それには沿っていなくてすみません。次回帰国時に読んでみます。
そして、死刑存置・廃止の世論の感情面、つまり当事者ではないが、社会秩序の方法として賛否を語っている市民への人権考については、「報復論では救われない」、ということではない、別のことを最近思いました。
先週末、日本人の友達たちとコーヒーを飲んでいたときに、北朝鮮の現政権問題に話が及び、一人の子が「やっぱり殺し屋を雇って首領を亡き者にするか、軍事介入するしかないんじゃないのか」と、言いました。
私は「いや、あくまでもソフトランディングでないと、どんな圧政な国であっても、ある権力によって一つにまとまっているものが、それがなくなればその下にあった小さな権力同士の血みどろの戦いになっていくし(フセイン後がそうなっている)、どんなに圧政に見えても、その解決に外国からの軍事介入では、市民の死者が出て、後でうらみやしこりが残るだろう。気の毒だけれど、即効性のあることは「副作用」をともない、また本質的改善にもまったくつながらないのではないか」と、言いました。
その後帰宅して、ネットでの様々な情報から、沖縄も岩国も、基地における地域住民の負担は、ちっとも減っていないそうだと知りました。毎日の騒音、基地が存在する危険性を考えると、国の中で、ある地域だけがその負担を強いられ、他の地域の人は、そういう現状を知りもしない。どうしてこうまでこの方たちが苦しんでいる声は、私たちに届かないのか、と。
それは自衛隊の存在も同じで、自殺者も多いと聞きます。軍隊では、命令には絶対服従。自分の頭で考えることを許さない。人間性を奪わなければ機能しない組織。しかも武器を持っている。そういう価値の中では、どうしたって人権は内にも(いじめ・暴力)外にも(清徳丸)軽んじられます。
論座で、死刑囚と死刑執行に直接関わられる刑務官の方のお話を読んで、これは人間が人間に仕事としてやらせることは無理だ、と思いました。死刑の日まで人間として関わってきた相手を、その当日はだまして執行の場へ連れ出さねばならないと。そんなことを生きている人間にやらせていいのでしょうか。軍人も同じです。人間性の破壊です。
そして「軍隊を持つ」ということには、付随して基地や騒音、演習による環境破壊もある。それを地域住民に押し付けている現状を知ってもなお、「軍隊は必要だ」と、我々市民は言えるのかどうか。
宗教者としての視点で活動なさることに、大賛成です。実際の貧困や苦しみを聞くと、何はなくとも緊急に「パン」をあげなければ、と本当に心が痛みます。状況の改善や権利取得に向け、実際的に働かれるすごい方もおられます。それもすごく大事ですが、「パン以外」のことに、実は飢えている方も多い。そういうところで働いてくださることは、現在とても有効に思います。
死刑に関係して「人権とは何か」、ということを宗教的に考えるとき、「感情面」という話は被害者のご家族へ向けて、一般市民に対してはそれよりももっと、「生命」や「人間性」という根本に目を向けてくれる方が増えるようなお話をしてくれたらいいな、とは希望しますが、でもやはり合理的内容でないと現在、多数を占める「情」によるものには勝てないのではないでしょうか。
社会秩序の話をする際、人権は、実は合理的内容にあたるのではないかと私は思いました。それはキリストの説いたことに人間としての合理性を感じるからです。
秩序に必要なフィクションはいくつかありますが、理にかなっていないものは定着しないと思います。
感情面でも「情」という質からは卒業した、成熟した社会になるといいな〜と希望しています。
個人的には、「情理を尽くす」という言葉があるように、「合理」と「感情」とは必ずしも対立するものではないと思っています。被害者や当事者の「感情」をも満足させる解決策こそが、本当の「合理」的な解決策なのだろうと思います。
むしろ、問題にしたいのは、「世論」の「情緒」的な反応です。つまり、正確なデータも、当事者の本当の「感情」も知ろうとせず、自分の不満やうっぷんを当事者の名の下に発散しようとする、昨今の風潮です。
本来、「感情」というのは、他者とのきずなを豊かにする大切なものだと思っています。「合理」だけでは計り知れない相手の人間性を、「共感」させてくれるものだと思います。だから、死刑問題なら加害者と被害者と刑務官、基地問題なら自衛官と沖縄の住民と本土の住民のように、立場が違う者同士が理解しあうためには、「合理的な対話」と同時に、「感情的な交流」も必要なのではないかと思います。
今の日本社会で特にうまく行っていないのが、この「感情の交流」ではないでしようか。自分の想いとは違うけれど、相手がそう想うのも理解できる。あの人のそんな想いはどうしても賛成できないけれど、自分が相手の立場だったら、やはりそう想っていたかもしれない。その程度の「共感」-というより「思いやり」と言った方がしっくりきます-は、かつてはもう少し当たり前だったようながします。
数年前、「ニューズウィーク」誌で、「IQ(知能指数)」と同じくらい「EQ(感情指数)」が重要だ、という記事を読みました。つまり、「感情」も「理性」と同じように、訓練することで高まっていくという、「感情教育」の重要性を訴えたものでした。「心」の問題が日々、重大化している日本では、「感情教育」の重要性はより高いと思います。他者とのきずなを豊かにする「感情」のあり方を示唆することが、宗教の大事なつとめの一つではないかと思います。
こんばんは。書き込み拝見しました。
その中で一つだけ、「思いやり」という言葉にだけは、言葉のイメージが私には道徳的で平板で、情緒的に感じられ、かつて売れたNHK司会者の著書「気くばりのすすめ」(でしたか?)を連想し、少しアレルギーを持ってしまいます。
でもそれ以外は、このお答えに、たいへん教わりました。
お考えに同感いたします。
ここで言われている情緒に付随し、「道徳」なども似ているような気がします。
「心の問題」というと、その概念がいまだ、「道徳」となってしまう・・・。「ちゃんと挨拶ができる子になってほしい」とか、「人に迷惑をかけないことだけは守ってほしい」などなど・・・。
そういうことから、もう少し成長した概念や感情を持てるようになったら、もっと世界が広がって、生きていることの素晴らしさを知る機会も増えるような気が、私は自分の経験から、そのように思います。
もちろん、かく言う私も修行中です。
ありがとうございました。