北海道新聞
2007年09月01日
ゆとり教育脱却か
昨日の新聞各社の記事によれば、学習指導要領の改訂を検討している中央教育審議会では、小学校の「総合的な学習の時間」を週1時間削減して、かわりに主要教科の授業時間を1割程度増やす方針を固めたそうです。総授業数の増加は、昭和52年以来なんと30年ぶりだそうです。それをうけて、今日の各社の新聞の社説でも、「やっと」という賛成派から、慎重派まで、いろんな意見が表明されているようです。また、今日の毎日新聞の1面では、それとは別に、農水、文科、総務3省プロジェクトとして、すべての小学生が農山漁村で長期宿泊体験をすることをめざす「子ども農山漁村交流プロジェクト」を始めると、昨日発表したとの記事が載っていました。3省が協力して、こうした有意義なプロジェクトを実施してくれるのは、とてもいいことだとおもいます。公教育での基礎学力の定着は、やはり喫緊の課題。格差が広がる社会の中で、塾に行ったり私立に行ったりすることのできない子どもたちと、そうした余裕のある子どもたちとの学力格差が拡大している現状を考えれば、子どもが自分の持って生れた可能性をのばすことができるように、小学校段階できちんと時間をかけて学力の基礎を養うことは大切だと思います。とはいえ、「ゆとり教育」がめざした「生きる力」そのものの養成もとても大切なことです。現場の先生も大変だとはおもいますが、ふたつが両立しうるように、社会全体で、もちろん親も含めて、教育を支えてゆかなくてはならないとおもいます。皆様は、どうお考えでしょうか・・。
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私自身のことで言えば、上の息子が高校2年の夏から学校に行けなくなり、休学して、高校卒業認定試験を受けました。別にいじめがあったとか、引きこもりだとかではなく、本人もよく分からないのですが、とにかく学校に行けなくなりました。県下一の進学校だったので、受験で燃え尽きてしまったのかもしれません。
問題は「何を学ぶか」「どう学ぶか」よりも、「何のために学ぶか」ということだと思います。たぶん、それは「何のために生きるか」ということと、結びついているような気がします。「何のために学ぶか=生きるか」さえしっかり自覚していれば、子どもたちは自分で「何を、どう学ぶか」を選んでいくんじゃないでしょうか。
本当は、「生きる力」とか「生きる意味」って、まず私たち親が考えなきゃいけないことだと思います。学校に理不尽なほどの要求を突きつける「モンスター・ペアレンツ」が話題になっていますが、たぶん、「生きる」ということを子どもと一緒に考える難しさから、目をそらしているんでしょうね。私はといえば、息子といっしょにウロウロしながら、息子と自分自身の「生きる」ことの意味を考えています。
何の疑問もなくより良い成績をめざし、当たり前のように大学に進学していく流れの外にあえて立って、学ぶ意味を問い直すことは、とても人間的なことだとおもいます。ひとそれぞれなので、関係のないことかもしれないのですが、私が以前に渋谷の語学学校で教わったドイツ語の先生は、20代後半で、留学経験もあり、東大の博士課程に在籍中の頭の良い、でもとても人間的にも魅力のある、語り合えばおもしろそうな青年でした。私は、きっとこのひとは中高一貫校から東大現役合格といったストレート組なんだろうと勝手におもっていたら、そうではなくて、中学も高校も学校に行っていないということでした。「このままでは生きていけないのでは」とおもって調理師の免許を取って働き始めてみれば、包丁の背で首をたたかれるような職場で、「これは勉強するしかない」という気持ちになり、大検(今は高認ですね)に受かり、カウンセラーにあこがれて東京国際大学という心理学の学べる大学に入り、ハイデガーの或る文章に感動してドイツ語の勉強を志して1年間のドイツ留学もし、卒業後に、東大の院に進んだのだということでした。「今は、大検(当時)で入ってくる学生は東大にもたくさんいます。」と彼はいっていました。実際、そのドイツ語クラスで一緒だった私大の4年生の女の子のひとりも、高校には行かず、中卒でも働こうとおもって調理師免許を取ったもののやはり勉強したいと思うようになって大検を経て大学生になり、さらに院に行ってもっと勉強したいということでドイツ語の勉強に来ていました。ふたりとも、人に傷つけられることはあってもひとに意地悪して傷つけることなはいんだろうな、とおもわせるような、優しい、よい方たちだったことが印象に残っています。
話はかわりますが、3年前のちょうど今頃、下の子の担任の先生から「今日も欠席ですが病欠ですか」との電話をもらい、確かに昨日も今日も学校に送り出しているはずなのにと、愕然としました。聞いてみると、夏休みの部活動も、親の私は毎日送り出していたのに、顧問の先生の話では「1日も出席していない」とのこと。部活動や、苦手な水泳で皆にからかわれるのが厭で、でもそれを親に言うこともできないで、40日以上も、学校に行くふりをして近所の公園やスーパーやブックオフで毎日数時間を過ごしていたのでした。ほんとうに、私ときたら、子どもの外側しかみていなくて、心が全く見えていなかったのでした。私の無言の期待みたいなものが子どもに毎日、うそをつかせる結果をつくっていたのでした。柴田様のコメントを拝読して、自分にかけていたものは、子どもと同じ目線に立って悩んだり、ものを考えるという姿勢だったのではないか、あのときも、いまも、自分にはそれが決定的に欠けていたのではないかという気がしました。その意味でも、貴重なコメントを、本当に、ありがとうございました。
一つ、肝に銘じていることがあります。7年前、カトリック学校の先生たちを招いてセミナーを開いたときに、栄光学園の久我先生(今はもう退職されました。イエズス会員です)がおっしゃっていたことです。「親や教師は、間違ったら素直に子どもに謝った方がいい。見本にならなければいけない、完璧でなきゃいけないと突っ張っていると、子どもたちも心を開けない」と、表現は違ったかもしれませんが、主旨はこんな感じでした。
本当に自分の弱さを認めて、他人に(まして自分の子どもに)さらけだすのって、怖いですよね。でも、「ゆるし」とか「和解」とか「連帯」って、そこからしか生まれないんだよなって思って、そのとき以来、久我先生の言葉を座右の銘にしています。なかなか実践できないですが...
あと、自分は、中学の卒業式のときに下の子の担任の先生が言った言葉もとても印象に残っています。うちの子に、「そのままの君でいい」という言葉を贈ってくださったのです。(中二の2学期のあのさぼり事件も、このベテランの先生のおかげで、乗り切ることができたのでした。)そして親全体に対しても「今の時代は、子どもが簡単に親の学歴や収入を超えることのできない時代だと最近ある本で読みました。親御さんも、子どもに対していろいろ望みはあるでしょうが、しかし私は言いたい。お子さんが生れてきてくれた日のことを思い出してください、と。ただ、明るく素直で、ひとを裏切らない、そんな子に育ってくれれば、それ以上何を望むことがありましょうか。」と、最後の謝恩会で話されたのです。私は、ついつい子どもの足りないところに目がいきがちになるたび、この言葉を思い起こしています・・。