2007年06月30日

「君が代不起立」とフツウの人々

0627-02.jpg (上智大学で『君が代不起立』の河原井純子さん)
 水曜日の聖イグナチオ教会でのお話で、根津公子先生が「今、学校では、君が代・日の丸の問題どころか、『平和』教育』なんていう言葉すら口にするのがはばかれる状況だ」とおっしゃっていたのが印象的でした。処分や内輪から仲間はずれにされるのが怖い、波風たてず、ともかく穏便に今日の日が過ぎていくように…、という多くの人々の本音が、そういう雰囲気をつくってしまっているのでしょう。でも、こうしたひとりひとりの小さなな怠りは、やがて巨大な不正義の洪水となり、いつしか自分もその災禍に巻き込まれてしまうことなのに!
★ 上智大学に来るくらいの学生であっても、本ブログが取りあげているような問題に関心や興味を持つ者はごく少数です。第一、近現代の歴史について何も知りません。知らないから興味も問題意識も生まれないのでしょう。高校までで、歴史を学んでクリティカル・マインドを養ったなんていう学生はほとんどいないようです。小林よしのりのマンガや2ちゃんねるなどで得た「サヨク蔑視」情報を鵜呑みにしている学生もやっぱり一定数いるようです。
 たとえば、こんな反応です…「国旗・国歌をないがしろにする教員を私は全く理解できません。国内的にも国際的にも認められている君が代・日の丸を軽率に扱うことは道徳的にも納得できません。あの女性教員は社会的儀礼を拒否することを正当化していました。では、生徒たちも同様に彼女の授業を拒否できるのでしょうか。もし生徒たちが『思想・良心の自由』を盾に彼女を師とすることを否むのなら、それはゆるされるのでしょうか。私はNOだと思います。私は、彼らの多くが日教組に所属し、教育現場を『不当に支配』してきたことを知っています。日本の教育を崩壊させた責任の一端は彼らにあります。彼らの多くは石原都知事を全面否定するでしょうが、暴走する彼らから公立学校を守るためには処分も当然でしょう。彼らは不偏不党・公正中立を是とする公務員です。それが『思想・良心の自由』を拡大解釈し、生徒を洗脳していく姿は、『子どもたちに自分で考えさせる』などという言葉で美化できません。もし国旗国歌を否定したいなら公立学校ではなく、私立のそういう方針を持つ学校に行くべきです。もっとも国のシンボルを軽んじる人間が世界の人々認められるかは疑問ですが」…、みごとに支配者の論理が刷り込まれています。
 別の反応…「中国などで教えられる歴史なんてほぼ都合のいいように変えられているであろうし、それをうのみにするのは『教育者』としておかしいのではないでしょうか。きみがよで起立するのはあたり前だと思います。会社員が上司にこの仕事をやってこいと言われて、私はいやです、なんて言ったらどうなるかと思います。サッカーの試合などで日本代表を応援するときなどは君が代をうたったり、国旗にほこりを持ったりするくせに、こういうことになればこうなってしまうような日本人は考え直すべきだと思います。そもそも国旗国歌で戦争を思い出すなんて短絡的だと思います。私は戦争を美化する気はさらさらありません。戦争はなくなるのがベストだと思います。大人になればやりたくないことをやらなくてはいけないということもたくさんあると思います。ただそれでいやだからって断るのは子どもだと思ってしまいます。なぜそんなことをしなくてはいけないんだ。いやでもしなくてはならないんだ、と考えるべきだと思います」。…こういうメンタリティーは、戦時中、中国で上官の命令だからと暴れまわった日本兵から進歩しているのでしょうか?
 もちろん多少の混乱も含みながら、根津先生たちに賛同する学生もいます…「『君が代不起立』で、思想の自由を訴えていた女性教師の主張にはおかしい所はありません。あのドキュメンタリー映像は、思想の自由を保障していながら、実はある程度の拘束を行っていたという、日本における表面的な思想の自由を鋭く示唆したものであるのです。私はこのような『思想への拘束』は、かつての日本の歴史において『思想の力』がもたらした影響の大きさについての恐れを日本がぬぐいきれないところからくるのではないかと思います。そして私はその最も強力な力が「キリスト教信仰」だったのだと思います。戦後、日本は宗教などにおいての『自由』を選びましたが、なぜいまだに『拘束』という道をつらぬこうとするのでしょうか?歴史の体験を生かし、『自由』の道へ転換して欲しいです」。…ともかく、テレビやマスコミ、ネットの断片情報にふりまわされ、一つの事象の背景や他とのつながりについてじっくり考えるゆとりも素養ももたない大学生を見ていると、憲法、というより平和で人間らしい世界の建設の前途はほんとうに多難だなと悩みます…。↓
悩みながら―「君が代不起立」根津先生の訴え(JANJAN 6/27 ひらのゆきこ記者)
『君が代不起立』の上智大学上映会 / 都教委糾弾「免職取り消し」裁判報告! / 6月23日の沖縄戦没者追悼式で、沖縄尚学高校付属中学2年の匹田崇一朗君(13)が朗読した平和の詩「写真の中の少年」全文 / 日本国憲法をめぐるたたかい―日本の民主主義は始動した―青 英権 (撫順の奇蹟を受け継ぐ会)
★ 米下院で従軍慰安婦不問題について、いったい何が決議されたのか、確認できます。↓
慰安婦問題に関する米下院外交委の決議案全文
「慰安婦」問題の米下院委決議・断罪された(しんぶん赤旗 6/28)
 主権者であることを「人類の多年にわたる自由獲得の努力(を)…幾多の試練に耐え」(憲法97条)て、受け継ごうとしぶとくねばる方々、がんばってください!
愛媛「つくる会」教科書 “元祖・本人訴訟”の最終弁論(JANJAN 6/28)
 大学生には、石原映画だけでなく、こちらも観て目を見開いてもらいたい。事実さえ見知れば、若い人々は変わりうると期待してます。↓
映画「TOKKO 特攻」−「日系2世の女性」が撮った 「特攻隊」ドキュメンタリー
posted by みつのぶ at 12:53| 東京 雨| Comment(14) | TrackBack(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは!ソウル在住、村瀬です。
27日の映画の方は、友人の上智大生も手伝っていたイベントでした。本当に各方面で憂いて、動いて、働いている方々がいらっしゃることが、このブログを拝見してわかります。いつも情報ありがとうございます。

今日のブログ中の:「サッカーの試合などで日本代表を応援するときなどは君が代をうたったり、国旗にほこりを持ったりするくせに、こういうことになればこうなってしまうような日本人は考え直すべきだと思います。そもそも国旗国歌で戦争を思い出すなんて短絡的だと思います。私は戦争を美化する気はさらさらありません。戦争はなくなるのがベストだと思います。大人になればやりたくないことをやらなくてはいけないということもたくさんあると思います。ただそれでいやだからって断るのは子どもだと思ってしまいます。なぜそんなことをしなくてはいけないんだ。いやでもしなくてはならないんだ、と考えるべきだと思います」
ですが、なるほどな〜と思いました。

人にはそれぞれ、成長の過程があるんだな、と。それはその人がどういう体験・経験をしてきたかで違う。
自分を振り返ってみても、小学生の頃の自分の判断と、そこから経験の増えた高校生ではまた違う。
また、自分に影響や広がりを持たせてくれる経験というものは、直接的対人関係と、書物という間接的な他の人間との接触による、「意外性(自分だけでは考えつかなたったこと)」の発見で目が開かれるのだと思います。

常識は無数にあります。

現在、ソウルの西江大学で韓国語を習っていますが、中国、モンゴル、カナダ、バングラディッシュ、アメリカ、そして日本人のクラスメートたちと学んでいます。
それぞれ年代もまちまちで、習慣や概念にも違いが存在しますので、日々「コモンセンスショック!」をもらっています。それは、興味深く、面白いものもあれば、当然不快に感ずるものもあります。

しかし、それを知ることによって、自分の持つ世界(常識)だけが常識ではないんだ、ということがよくよくわかります。
世界中に人間が住んでいて、またその世界の中でも個人個人の「世界」の中で生きているんですね〜。

先に抜粋した方の考え(大人はいやでもやらねばならぬことがある=国家はいやでも歌うもの)は、すでに人権意識が進んでしまった人間からみれば、おかしな考えです。でも例えばジェンダーにしても最近の概念で、かつてはそういう差別に対して「あたりまえ」というか、おかしいとすら、多くの人は気づけなかった。

現在の我々もまた、「停止している」わけでなく、日々の経験で常に何か影響を受けて変化していることでしょう。

政治家や権力者は別として、同じ市民に関しては、できるだけともに成長したい気持ちで見守りたいです。経験が少なく、「意外性」ある視点を発見・開拓できければ、狭い世界に住んでいるのはあたり前で、だからと言って愚かと決め付けては、彼らの現在の状況・存在を否定するように思える気がするのです。

そういう方々も、できるだけ議論や話をでできる場に誘って、違う視点を経験してもらって、影響を受けて変わる方も中にはいると信じます。

大学でのそういう学生と対峙されたとき、お疲れになると存じますが、逆に言えば、そういうところこそが、宣教師や教育者の腕の見せどころではないでしょうか。

自分の価値観を押し付けるのでなく、「いつでもあなたの話を聞きますよ」という懐の深さを示してくれる教育者がいたらいいな〜と、今、また久しぶりの「学生」なんかしちゃってる私は思います。
このブログをお読みになっていらっしゃるみなさん、灯りを一つ一つ灯すように、ともに頑張りましょー!村瀬慈子
Posted by 哲学する主婦 at 2007年07月01日 13:42
追伸です。
その語学クラスで、「学級新聞」を韓国語で作ろうよ!と呼びかけてみたところ、12人全員、賛成してくれて、今、毎週編集をしています。
現在は至れりつくせりで、言いだしっぺの私が紙を配り、回収し、編集、各人へコピー配布と、クラス壁への張り出しまで1人でやっていますが、皆が書いてきてくれるだけでうれしいです!
皆のことが知れる、ということと、会話には欠かせない相手への信頼や打ち解けた安心感が得られるし、韓国語作文の練習にもなるので、なかなかいいじゃ〜ん♪と楽しんでやっています。

6月25日は朝鮮戦争の日で57年前だと、日本の憲法の先生からメールで教えていただいたので、今週号には私は、そのことを書くと同時に、憲法9条の韓国語・中国語・英語・日本語訳を掲載して、この概念を世界へ広げたいので、読んでください、と書きました。
韓国人の先生たちも喜んで読んでくれてますよー。がんばりますー。村瀬
Posted by 哲学する主婦 at 2007年07月01日 14:22
哲学する主婦さま、こんにちわ!韓国語のクラスでの学級新聞作り、すてきですね。村瀬さまのような素敵な日本人の方が韓国でいろんな国の方と接しながら暮らしていらっしゃるとおもうと、日本人として、うれしく、誇らしいような気持ちです。ほんとうの国際理解は、やっぱりそういうところから始まるんではないかとおもいます。頑張ってください!
また、記事へのコメントにも、深い共感を覚えました。私たち人間は、生きている限りはいろんな経験をして、そのなかで変わってきますものね。若い学生さんなら、なおさらですよね。今は反発を覚えても、でも国歌に対して自分とは違った考えをもっている方の話を実際に目の前で聞いた、という経験が、これからぶつかるいろんな経験や学びと響きあいながら、その方の世界を広げてゆくことにつながってゆくのではないかと思います。無関心よりもずっといいのかもしれない・・。あと、やはり思うのは、先生という立場からの意見や思想の表明は、学生にとってそれ自体、強制ではなくても圧力であることにはちがいない、ということです。それは、国歌を歌いたいのに担任の先生が反対である場合にも、またその反対に先生は歌わせたいけれど学生は歌いたくない場合でも、学生の側が感じる一種の圧力であるという点では違いがないようにおもわれます。この問題だけではないですが、自分も子どもの親として、また、中年になってまた自分自身学生をやっているなかでも、いろんな点で「先生」とのあいだに波風は立てたくないなあ、という気持ちから先生に逆らうような意見は言えない弱い自分がいます。もちろん、子ども、あるいは自分が教えていただく立場である以上、目上であり自分よりも見識もが学識も高い先生の意見というものを素直に受け止めるべきだし尊重すべきだという気持ちもあるのですが、正直に自分をみつめると、それだけでない部分もあるかなあって・・。まとまらないコメントでごめんなさい。
Posted by 上田 at 2007年07月01日 20:25
「センセー」は、上から自説を押しつけたい誘惑にたしかにかられますね。でも、根津先生の「君が代不起立」は、まさにその権威構造を先生自らが拒否するという点こそが焦点なのでは?「生徒も(+センセーも)なにを言っても自由だ、相手の言うことに互いに耳を傾け、語り合って共に成長しよう」という場をひらくはずの本来の教育が危機にひんしているからこそ、立ち上がって(というか着席し続けて)抗議なさっておられるのが根津先生たちだと思います。エライ立場(カトリック教会なら司教とか神父様とか)がなにか言うと、圧力を感じるし、教会の和が乱れるから、そういうことを言うな、という声はよく聞きますが、どうかなぁ、それではここぞというところでの「預言職」が発揮できなくなってしまう。エライ立場はどこまでもへりくだって人々の心の叫びに耳を傾ける、下(?)の立場の人々も、おカミからの声に身をゆだねて楽していたいという囚われを断ち切り、あえて声をあげる、そういう双方からの修行が意識される場こそが人間らしい共同体(すなわち、教会)だと思うし、そこでは指導的立場の人が自己の立場をむしろ明確に表明すべき場合もあるのではないでしょうか。(もちろん重大な事柄であろうし、しかも権威的にではなく、おののく心でなされた識別と、イエスのように十字架につけらる覚悟が不可欠ですが)。わたし個人は、(根が単純なので)あいまいな態度はとれないですね。イエスは「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ福音書8・32)と言われますが、この「真理」への道はほんとうに厳しいと感じるこのごろです。
Posted by みつのぶ at 2007年07月01日 22:55
おはようございます。登校前のわずかな時間の”投稿”です(笑)。

上田さんとみつのぶさんのコメント読ませていただきました。
上田さんのは、「世界」たしか5月号の西原博史さんの論文を思い出しました。私はあれには一理あるという感想と、「だがしかし」という、やはりその説を全部は受け入れられないな、という感想でした。
でも上田さんもこういうご意見だとすると、今一度、私も再考を試してみます。

さて、それに対して、みつのぶさんのご意見は、そういう教室内の先生と生徒との関係や教会での神父と信者の関係について、ご自身のお考えをお書きになった、ということでしょうか。

私は「大学でのそういう学生と対峙されたとき、お疲れになると存じますが、逆に言えば、そういうところこそが、宣教師や教育者の腕の見せどころではないでしょうか。」と先の書き込みに書きました。
それに、「成長を見守ることが大切では」とも書きました。
それは、みつのぶさんが書かれた例のような「神父のようなエライ立場がなにか言うと影響(圧力がある)するからそういうことをいわないで」という種類のことではありません。

「イエスのように」ということ。
私はイエスは決して「ああせい、こうせい」とは言わない方だった、と印象しています。直接的なことをいうのは、むしろ立法学者たちで、その対比は聖書に如実に現れています。
私は宣教の役割と福音を述べ伝える意義は、「意識変革」「新しい価値」「新しい視点」を伝えることだと思っています。
そういうことを行う際、果たして、どういうアプローチの仕方が、人々の心によく伝わるだろう・・・。
教師や宣教師は黙って見ていろなんて、私は言いません。それは仕事をしていないことと同じです。
そうではなく、ただただがむしゃらに自分の善や価値観を「これが真理だ!これが正しいのになぜわからんのだ!」と押し付けて、誰が受け入れてくれるか、ということです。
そうしたい気持ちをこらえて、本当の愛の気持ちをもって、相手を尊重、尊敬して、成長をみまもりつつ、直接的でない言葉の工夫で、相手が自然に理解できるようにする、ということです。それが腕の見せ所ではないか、と。

イエスの喩えは、本当に素晴らしいですよね〜。聖書を読むと、本当に惚れ惚れします。パウロもちょっと頑固な感じはあるけれど、素敵。
そして私は聖書と同じくらいバイブル的価値に思っているのはエーリッヒ・フロムの「愛するということ」です。これは目からうろこでした。また聖書の解釈が格段に進み、人生観まで変わりました。
それでは、遅刻しそうですので、また!村瀬




Posted by 哲学する主婦 at 2007年07月03日 07:57
6/27のイグナチオ教会での根津さんの講演を、テープから起こしています。7月中旬に発行する私の職場のニュースレター、「社会司牧通信」に掲載するためです。紙幅の関係で、残念ながら半分に圧縮しなければなりませんが、一応、全文をじっくり起こしてみて、改めてお話に感銘を受けました。

ところで、お話の内容もそうなのですが、根津さんご本人に初めてお会いして、その人柄にも大いに感銘を受けました。まず、人の話を誠実に聞く。それから、押し付けがましく正義を語らない。「ああ、こんな先生に教えてもらったら、生徒は幸せだな」と感じました。

お話の内容については、細かい点では異論もあります。ただ、上記のような根津さんの姿勢や、映画に出てきた根津さんの教え子たちの、根津さんに対する信頼を見ると、「この人なら間違いない。応援していいんだ」と思わされます。根津さんは、主張の正しさももちろんですが、そうした全人格的なかかわりを通して、応援する人を増やしてきたのだなと実感させられました。

まるで違うものの見方をする大学生たちと接すること、「疲れる」かどうかは知りませんか、「うれしい」ことではないでしょうか? 実は先日、みつのぶさんの授業で「死刑」について話をさせていただきました。私は死刑反対の立場から話しましたが、死刑賛成の方からも質問をいただきました。実を言うと、「死刑」についてお話をする場というと、参加者のほとんどがすでに「死刑反対」であることが多いので、世論を変えるのにどれだけ役に立っているのか疑問に思っていました。その点で、すごくうれしかったです。ただ、実際にどれくらい、根津さんのような心に届く話ができたのか、自信はまったくありませんが...

ところで、「イエスのように話す(教える)」ということ、確かに難しいですね。でも、同じように話す方は何人か、知っています。基本は、何の権威によって話すのかということだろうと思います。学識なのか、地位なのか、経験なのか、職権なのか。私たちはそうした人間的権威に頼って話しがちですが、それでは人の心はつかめないし、変えられないだろうと思います。

イエスはたぶん、神の権威によって話されたのだろうと思います。神の愛、といってもいいだろうと思いますが、だから、「偉い人」に対しても「いやしい人」に対しても、同じように話す。言いにくいことであっても、平気でズバッと言う。なのに、不思議と偉そうに聞こえない(ただし、律法学者のように人間的権威に頼っている人にとっては、イエスの話も偉そうに聞こえるのでしょうが)。自分は神の真理を伝えているに過ぎないと自覚しているから、きついことを言っても偉そうに聞こえない。そういうことなのではないでしょうか。

もちろん、現実には難しいです。教皇や教会の指導者たちも、公文書では押し付けにならないように、最新の注意を払って書いています。そのため、結果的には何を言っているのか、素人にはよく分からないことも、ままあります。その点、ジャン・バニエとかマザー・テレサのように、全てを神に捧げ尽くした人たちは、「イエスのように」ズバズバ語りますよね。根津さんにも、同じニオイを感じました。

「イエスのように」語るのは到底無理でしょうが、根津さんやマザー・テレサのように、己の正義ではなく神の正義に基づいて、全人格を賭けて伝えていきたいものだと思います。
Posted by 柴田幸範 at 2007年07月03日 10:25
私も、「君が代不起立」を2回見て、そのうち小金井では根津先生のお話も少しはうかがうことができ、会場のかたとの質疑応答もわずかな時間でしたが拝聴して、柴田様と同じような感想を持ちました。細かい意見の違いとか立場の違いということは置いておいて、この方は、素晴らしい先生だ、こういう先生を停職処分にするほうが間違っている、強くおもったのです。なので、国旗・国歌に自分としては反対ではないですが、権力が根津先生に不当な圧力をかけているそのこと、に抗議したくて、ささやかながら子どもの都立高校の入学式では不起立してしまいました。
私が、コメントで言いたかったのは、主張のちがいはあれ、誰かが誰かをなんらかの権威によって押さえつける、みんなが自分の思うことを自由に言えない社会になってゆく、そういう構造が、君が代不起立問題で、自分が最も問題だと思う点だ、ということです。もしも社会の風向きが変わって、国旗国歌をないがしろにする勢力が強くなっても、反対に国旗国歌を大事にしたいひとたちが発言できなかったらやはりおかしいと自分はおもうわけです。間違っているのかもしれないし、自信はありませんが、少なくとも自分にとっての「君が代不起立」問題は、なんらかの権威による言論の弾圧というところにあり、それゆえに一部のひとだけの特殊な問題ではなくて日本の民主主義の存続にかかわるような問題なのではないかとおもうわけです。なので、不起立に賛成する学生はよく考えている学生、不起立に反対する学生はそうではない、というようなことを、もしかしたら実際はそうなのかもしれないけれども教師が色分けするようなことも、国歌を歌う学生は愛国心のあるいい学生、歌わないのは集団行動のとれない利己的な学生だと色分けするのと同様に、自分としては、自分が色分けされる側に立ったら、圧力と感じるという点では同じなんではないかなあとおもったわけです。
とはいえ、自分は、ほんの1年間みつのぶせんせいに教えていただいただけですが、根津先生に対して柴田さまがおっしゃっていたのと同じことを、自分はみつのぶせんせいに対しても感じています。意見が全部おんなじではないですが、毎週の講義や、その他に接しながら、昨年自分が感じたのは、少なくともみつのぶせんせいは、本当に善い意図をもっているいい人間であり、いい先生だ、ということです。しかも、多分、私には見えていないものを見ることができる方だ、という尊敬というか、信頼の念も抱いています。なので、このブログも応援したいし、ますますのご活躍を祈りたいなあと思っております。またまたまとまらないコメントでごめんなさい。哲学する主婦さまのコメントも、おんなじ主婦なのに、よく考えておられて、しかもちゃんと自分の意見が理路整然と書けて、すばらしいなあと感嘆しています。またぜひいろいろご教示くださいませ。フロムの本も、いつか読んでみたいです。プロテスタントの友人からもすすめられたのに、まだ読んでいません・・。
Posted by 上田 at 2007年07月03日 18:42
先ほど『世界』を読んでいて、「哲学する主婦」さんの書き込みを思い出し、5月号の西原さんの論文を読みました。一読して「なるほどな」と思いました。西原さんの論旨は、私の理解だと、こういうことです(かなり荒っぽいですが、お許しを)。

−教員が良心の自由に基づいて、学校で「君が代」不起立(不斉唱)をするとき、やり方によっては、生徒が「君が代」で立つ(歌う)自由が抑圧されかねない。教育で第一に保証されるべきは、生徒の良心の自由だ。教員の良心の自由が保証されるのは、教員が自由でない学校で、生徒の自由が保証されるはずがないからだ。

この論に賛成する第一の理由は、子どもの権利が第一に考えられているからです。日本のいわゆる「教育論議」は、大人による、大人のための「教育とは/子どもとはかくあるべし」であって、当の子どもの意見がほとんど無視されています。「子どもの権利条約」を読んでからモノを言え−と言いたくなる議論がたくさんあります。

第二に、「自由」を突き放して(というか客観的に)捉えているからです。つまり、「君が代」を「歌わない」ことが「自由を守る」ことで、「君が代」を「歌う」ことは「自由への挑戦だ」−というような価値観に疑問を投げかけているところです。結局、「表現の自由」とは、「私はあなたの意見に反対だ。だが、あなたが私と反対の意見を述べる権利は、命を賭けて守る」ということなんですよね。

その辺は、根津さんもかなりはっきり言っています。「もし、国歌が君が代から私の大好きな歌に変わっても、それが全員に強制されるなら、私は歌わないし、起立しない」。もちろん、「日の丸」「君が代」それ自体にもいろいろ問題はあるわけですが、少なくとも根津さんの問題意識は「全員強制=自分の頭で考える子どもを育てる教育の破壊」というところにあるわけで、それは西原さんの論文の結論とも一緒なわけです。

実は先日、みつのぶさんの授業で死刑廃止の話をして、そのリアクション・ペーパーを送っていただいたので、読んでみました。私の話に賛成の感想、反対の感想、辛らつな批判、よくわからないが考えるきっかけになったという感想、いろいろいただいて、面白く読みました。ただ、意見のいかんにかかわらず気になったのは、「死刑の存続/廃止」を「死刑囚の支援/被害者支援」と結びつけて、「二者択一」、「どちらが重要か(先か)」と論ずる意見が多かったことです。

欧米の死刑廃止運動や被害者支援運動では、この両者は二者択一でもなければゼロサムでもなく、両方独立して行うべきことだというのが、共通理解となっています。なぜなら、どちらも「人権/人間の尊厳」の問題であり、人権というのは、たとえ敵対する立場の人であっても(加害者と被害者が必ずしも敵対しなければならないかは別として)、等しく守られなければならないからです。

どうも、日本ではこういう強靭な人権観、自由観、民主主義観がまだ浸透していないような気がします。リアクション・ペーパーにもあったのですが、「(柴田の死刑廃止論は)理想ばかり高い日本のカトリックらしい」とか、「日本は赦しより償いの文化だ」とかいう感想をよく聞きます。固有の現実とか文化に寄りかかり、自分の体験や理念に寄りかかって、「右か左か」に色分けする不寛容な態度。

私が死刑廃止運度で学んだのは、そのような意見の違い・立場の違いを突き抜けたところにあるに違いない、普遍的な道を追い求める誠実さ、強靭さです。そんなふうに突き抜けなければ、いたずらな対立と不毛な水掛け論を繰り返し、消耗するばかりのような気がします。少なくとも、根津さんは、そうした対立のワナを突き抜けているように思えたのですが...

何だかまとまらなくてすみません。
Posted by 柴田幸範 at 2007年07月04日 14:11
 多忙ゆえにご無沙汰しています。なんだか盛り上がっているようなので書き込んでみました。まず先日の柴田さんの密度の高いご報告に感謝申し上げたいと思います。

 死刑制度の是非については(私自身は究極的にこうだという結論を見出しているわけではなく暫定的「結論」ですが)やや異なったスタンスを結果的に選択しているように思いますが、上で柴田さんが述べておられることに賛成です。

 精神的自由の保障の問題にかんして、信念自体の妥当性の問題と、さまざまな信念をもちそれを表明することの自由とが混同されている面があると思います。また死刑制度の関しても、制度自体の是非の問題と被害者の救済や当事者同士の和解の問題は一旦切り離して別個に考えねばならないのは柴田さんのおっしゃるとおりだと思います。
Posted by ライムンド at 2007年07月05日 12:48
恥ずかしながら、「世界」という雑誌は一度も読んだことがないのですが、柴田様のコメントにあった、教育においては「子どもの権利が第一に考えられ」なくてはならないという指摘、ほんとうにそのとおりだなあと思いました。また、柴田さまとライムンドさまのコメントを読み、いつもながら、自分がうまく言えないことをちゃんと整理していただけたような気がして、うれしい気持ちになりました。
死刑廃止問題については、私は、つい先週の土曜までは、廃止論者でも賛成論者でもありませんでした。でも、ここのところ、ブログでも、また大学の授業でも話題になっていたためにいろいろ思い悩んでいました。そんななか、土曜日にリーゼンフーバー神父様の「祈りの集い」に出て、講話の中で「いのち」の、他のこととは比べられないような「善さ」ということについて話されるのを聞いた瞬間、うまくいえないのですが、その言葉の力のせいか、「いのち」というものが、わたしたち人間の自由にできないほどの尊いもの、それ自体尊厳をもったものだという事が胸に迫ってきて、「やはりどんな理屈があっても人が人のいのちを奪うということは人間にはゆるされていない」ということが一瞬で自分の内的確信になりました。中年になっても、まわりの方たちの影響の中で意見というのは変わってゆくものだなあと自分で自分の考えの変化に驚いています。若い方たちなら、なおさらだろうとおもいます。
また柴田様の「意見の違い・立場の違いを突き抜けたところにあるにちがいない普遍的な道を追い求める誠実さ・強靭さ」を死刑廃止運動を通じて学ばれた、という言葉には、感動しました。たぶん、そうしたあり方こそが、ほんとうに神の御心にかなう運動のありかたなのだろうとおもいます。ときとして、右と左とに別れて、お互いに意見が違う相手を憎んでいるような動きを社会の中でみるとき、そのどちらにも同じ悪い霊がうしろからけしかけて人間を憎み合わせてあざ笑っているのではないかと感じてしまうのは、私だけでしょうか・・。ヤスパースの「愛しながらの争い」ではないですが、お互いに遠慮なく意見を表明しあうことでますますお互いに対する理解も自分についての理解も深まって、ますます愛し合い、高めあってゆけるような、そういう関係が、言論の自由の基盤として、いつもあるといいな、とおもいます。今回もまとまらなくてすみません。
Posted by 上田 at 2007年07月05日 19:29
みなさまのコメント拝読いたしました。ありがとうございました。

まず、私が現在のように護憲の活動をするようになった原因や理由をお話したいのですが、理由のうち、意識があるなかでは(意識には上っていないものもあるのかも)、古くは小学校時代から感じていた疑問であり、また関わるまでで最も新しいものは、高遠さんたちの人質事件です。

また、フィリピンに4年住んだことにより、初めて「外国人」として「日本」を見たことや、自分を「日本人」と規定しなければならなかったことに付随する、迷いや悩みから、というのもあります。
それと似ていますが、ここでもう一つ、挙げておきたいものがあります。それは、
「肩書き」です。

上田さんは、上記コメント中で、「おんなじ主婦なのに」という形容をされています(褒めてくださってどうもありがとうございます)。
けれども、私はそのこととも戦っています。
ところで私が「哲学する主婦」と名乗って??いることにも、原因や理由がありますが今は省きまして、「肩書き主義」への挑戦としてあえて「哲学する主婦」ということをいう(やや皮肉って)、というところもあります。

そんな私の願いは、「市民」が本当の「市民たらん」となることです。
それには、年齢、性別、肩書きによらない、「個人」として人を見て知り合い、意見の交換をする、ということがなければ、実現できないのではないでしょうか。

人は皆、初対面の人にはどうしたって「ファーストインプレッション」を抱きます。そしてそれはネガティブに転じれば「先入観」ともなり、さらにはそれによって、相手を自力でそれ以降も知ろうとせずに「カテゴリー分け」をしてしまったり。

しかし、例えば私は子育てもしていませんし、「主婦」ということを、職業として言えるほどその「任務」を遂行もしていません(笑)。私のしていることは、例えば1人暮らしの会社員もしていることです。そういう意味では「無職です」と言ったほうがいいのでしょうか。

「日本人です」と言ったときに、相手が持つ印象と同じで、「肩書き」にも大まかな系統は存在もするでしょうが、そのステレオタイプだけで判断する、ということは、豊かな交流とは言えないのではないでしょうか。

こういう活動をするようになってからも、様々な「肩書き」の弊害はあります。講演会や勉強会では「○○大学の○○です」とか、「所属を言ってから発言してください」と、まるで社会的に認められた、わかりやすい肩書きがないと、発言できない=市民権がないかのような扱いのときもあります。
また、講演者も質問者が「主婦」と名乗ると質問する前から、なめてかかってしまって「どうせ世間知らずな発言だろ」と、私が本質的な指摘をしても、それを読み違えてしまい、まったく違う、浅い理解での回答しかもらえなかったこともありました。また、彼らもその「肩書き」を守るのに必死で、恥をかきたくないと、「肩書き」という制服の上に、さらには「鎧」までまとっている方もいらっしゃいます。

しかし、そういうものは防御してくれますが、同時に新鮮なもの、良いものをもブロックしてしまいます。とてももったいないです。

「肩書き」でなにがしかの印象や先入観を持ってしまうのはしかたがない事です。
でもそれは、できるだけ”緩やか”に持つようにして、その奥にある「個人」を知り、交流したいものだと思います。

現在、私は年上だろうが、男性だろうが、教授だろうが、学生だろうが、構わず、「今、必要だから!」ということを優先して交流をしています。
体裁やコンプレックスとの戦いも相変わらず存在しますが、現状(平和憲法が脅かされる状態)を見れば、もうくだらないことに関わって(見栄や体裁やお行儀)なんていられない、という気持ちが強いので、正直に人と関わるようにしています。

平和憲法の理念を広げることって、キリストの福音を告げ知らせることと、とても似ていますよね〜。

2006年に、私には何かが起こったようで、そのような垣根を越えてからは、「神」も今までのような擬人化した「神さま」ではなくなりました。
「神」は「命」であり、「愛」であることが、今はとても理解できます。
生まれ変わったパウロみたいに、「告げ知らせたい」思いでいっぱいです。

死刑についても昨年レポートを書きましたので、申し上げたい意見をもっています。
柴田さんへは次回、またぜひ発言させてください。村瀬






Posted by 哲学する主婦 at 2007年07月05日 20:49
村瀬様、「主婦」という言葉から一般の人が受ける印象、たしかに、いいものではないですよね。自分の思うことを伝えたいと思ったときに、その内容が3割引くらいになってしまうようなマイナス効果が、たしかにある気がします。それというのも私のようにイメージどおりのあんまり社会のことを知らない主婦が存在しているせいかもしれません・・。(正社員経験ゼロ、主婦生活20年の経験から言い訳させてもらうと、どんな人間だって会社づとめとかそういう世界で責任ある立場で働くことを断念してパートなどで単純労働に従事し、それ以外の時間は子どもや家族とばかり向き合っていたら、いくら心がけてはいても、キャリアのある人と比べ社会的訓練の面や能力開発の面で不利で、彼らに劣ってしまうのはいかんともしがたいかな、と。くやしいけど、今となっては、20年前には同じ可能性をもっていたはずの主人と比べても、主婦の私は社会的能力や知識に関してはまったく勝負になりません。)
私などは逆にそれに甘えて、「どうせみんな主婦の意見だとおもって軽く聞いてくれるだろうから気軽に思ったことを書き込めばいいかな」とおもって、自由にコメントさせていただいている面もあるのですが、このブログでは私よりもずっと学歴のある井川さんや立派な社会人である柴田さんとも立場を超えて交流できて感謝しているところです。もちろん、みつのぶ先生も、ただ「主婦」だというだけでひとを見下すような方ではまったくありませんし、ありがたいことです。子どもも大きくなってきたので、社会にも少しずつ目を向けていきたいですが、それよりもまず今一度社会のために奉仕することのできる基盤になるような学力を身につけなおすことが自分の場合は当面の課題かな・・。村瀬様の「肩書き主義への挑戦」、こころから応援しています。新しい「主婦」イメージを、ぜひ、創っていってください。そしてまた、成長し続けることのできる主婦の生き方をも、切り開いていってください。
Posted by 上田 at 2007年07月08日 14:36
う〜ん、何と申し上げればいいのか・・・。
上田さんには上田さんの気に入った理解や、社会の中の価値、位置づけの認定があるでしょうから、私にはもうこれ以上申し上げる方法がないのですが・・・。

ただ、せっかくエールを送っていただきましたが、私が申し上げている「肩書き主義への挑戦」というのは、なにか「新しい主婦像」を作ることなどでは”まったくない”ことだけは、できれば了解いただければ、と存じます。

「主婦」とあえて申し上げていますのは、前回申し上げたとおり、「皮肉」の意味もあります。

「私よりもずっと学歴のある○○さん」とか、「立派な社会人の△△さん」という価値観自体を考えなおさなければ、それ以上の広い視野はもてないのではないでしょうか。
そしてその「立派な社会人」なるものが存在するとすれば、どうしてあなたはその「立派な社会人」ではないのですか?
では「社会」って何?あなたがずっと生きてこられた場所は、「社会外」だったのですか?

どちらかと言うと、そういう考えをなさる方がいらっしゃることが最も、「肩書き主義の打破」=「裸の市民」の誕生にとって弊害ですので、現象としては、「応援します」とは逆になってしまいます。

自分の存在を心から認めることです。謙遜や卑下があるうちは、素直にしているように見えて、まだまだ気取って、自分を守って鎧を着ています。

すみません。でも私はそう思います。
では、失礼します。村瀬

Posted by 哲学する主婦 at 2007年07月09日 23:33
村瀬様、コメント、ありがとうございます。そうです。私には、私のおかれた立場や経験があり、それこそは、たぶん、村瀬様が挑戦したいとおもっているお考えなのだろうと思ったから、あえて書いてみました。「応援しています」というのは、この20年間で自分がそのように卑屈にならなくてはならなくなった私の人生の諸事情はそれはそれとしておいておいて、私とはちがう生き方、お考えをおもちの村瀬様に、村瀬様は村瀬様の抱負を持ってがんばってください、という意味で、自分も同じような生き方をしたいとか、そういうことではありません。考え方はちがっても、主婦という立場で、より良く生きようとされている村瀬様の、その意欲を応援したいとはおもいます、という意味にすぎません。それって、応援になってない、とお考えだったら、ごめんなさい。でも、あえて「主婦」を名乗られるということは、やはり「主婦」のイメージに関して何らかの違和感をもっておられるのだとおもうし、その点では一致していると、自分は理解しているのですけれど、違うんでしょうか・・。ともあれ、村瀬様のコメントの趣旨を読み違えているのであれば、お詫びいたします。どうか、お許しくださいませ。これからも、どんどん、このブログで活躍してください。このブログでは、別に「主婦」を名乗って皮肉らなくてはならない相手はいないとおもうので、むしろ、一個の対等な人間として、これからもどんどん発言してください。ひさびさにブログも議論が盛り上がってきましたし、とても楽しみにしています。
Posted by 上田 at 2007年07月10日 18:44
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