★死刑制度について問題提起している映画『デッドマン・ウォーキング』を再見したのですが、死刑囚のマシューは、あれこれ抜け道を探し、(家が貧しかったとか、つき合っていた友達が悪かったとか、薬をやっていてメロメロだったとか、…結局、自分はいつも犠牲者であったと)自分の責任を他に転嫁して、自分がやったことを否定し続けます。けれども、死刑の時刻が近づき、母親や弟たちと最後の面会をした後、「死ぬ前に本当のことを言って」と切願するシスター・プレジャンに、とうとう「自分がやった」と告白します。家族とシスターの愛に気づくことができたからでしょう。「昨晩、生まれて初めて神に祈った、被害者と家族のために」と言うマシューに、シスターは「よかった、今、あなたは『神の子』よ」と励まします。「『神の子』だなんて、誰にも言われたことはなかった。人を本当に愛したこともなかった」と涙ながらに、被害者家族に詫びながら死刑に臨むマシューについて、DVDのコピーには「そのとき彼はもっとも人間らしい顔をしていた」とあります。いっしょに観ていたある人は、「人は、自分が罪人だっていうことは、実はみんなよく知っているけれど、しかし神さまがゆるしを与えようと待ち構えておられることは、ほとんどの人が知らないか、知っていても実は信じようとしていない」…と感想を述べていました。 ★ヤスパースは、ドイツ人の戦争責任を「刑法上の罪」・「政治上の罪」・「自分の良心に対する道徳上の罪」、そして最終的なものとして、神とか絶対者に対する「形而上の罪」に区別し、それぞれに浄めの償いをなすべきことを訴えます。人からゆるされたりゆるされなかったりするその根底で、最終的なゆるしと和解を得るためには、結局、この最後の次元を無視することはできません。これを無視し、最後まで自分の罪を否定し続けて死んでいくならば、その罪人が入っていく先は、心を最終的な「汝」に打ち明けることができなかった一人ぼっちの「永遠の孤独」である他ないでしょう(…それを「地獄」と呼びます)。罪とは、つまり根本的には、人間が「形而上」の存在を無視し、自分のエゴを絶対化して、そのエゴを神とするところに生じるものなのです。…そのとき、この人間は「神なし」で生きており、それはすなわち「自分が神である」と思っており、それゆえ自分はなんでもできると錯覚し、そこで小さな嘘からアウシュビッツや日本軍の「三光」作戦にいたるまで悪事の大渦に巻き込まれていきます。今回の広告を出した者たちは、いったいマシューのような「人間らしい顔」をしているでしょうか。彼らは国会議員や著名人となり、権力の味をしめたのでしょうが、このように増長し、多くの証拠を無視して歴史を歪曲してまで強がろうとする先にあるのは、前農林相が入っていったのと同じ、最も寂しい闇の孤独でしょう。このような強がりは、ガラスのように脆いもの。事実の前に頭を垂れ、悔い改めて、心を真理に開くことを知らぬこうした人々がやろうとする政治も、結局、脆い闇のわざでしかないでしょう。ほんとうに、こうした闇がそこらじゅうにはびこる日本の政治がなんとか浄められるよう祈らずにはおれません。
日本の国会議員ら、米紙に「慰安婦強制性否定」の全面広告(AFP)
「美しい壺日記」ブログより:広告記事全文と翻訳
★ 朝鮮半島のメディアからはさっそく非難の声があがっています↓
ワシントンポストへ広告をだした国会議員名、韓国紙の論評
〈論調〉 無能でぜい弱な安倍政権(朝鮮新報 6/16)
〈論調〉 国連地位を占める資格ない (朝鮮新報 6/16)


