今朝、ある本を読んでいたら、自分の問いにいくらか光を投げかけてくれる文章に出会えたので投稿させてください。
「人間が悪をも犯しうる自由をなぜ神が与えたのだろうかという疑問は読者からたびたび提出せられる疑問である。善とはなんであるか。それは真っ直ぐなというだけではない、善とは人格(すなわち自由の主体)が、その自由なる生命の発露として正しい道に乗ったことを善という。強制されて正しい道にのったのは善ではない。それは人格的自由なしに、ただ外面がやむをえず正しい姿をしているというだけにすぎない。本当の善と、似て非なる強制された正しさとの区別は、肉筆で描いた線の美と、定規で描いた線の美との相違のようなものである。定規で引いた線は一見正しく引けており、美しいように見えるかもしれないが、それは芸術ではなく、生命がなく、味わいがない。なぜなら、それは定規によって強制されて、ほかにゆきどころがなくてそのまま直線になっているにすぎないからである。もし、人間が正しい道にのるほかになんらの自由もないならば、われわれの行為は定規をあてられたと同じことになり、真っ直ぐには歩めるかもしれぬが定規で描いた直線と同じようにすこぶる興味なく生命なき人間の動きとなってしまうのである。・・・だから本当の善というものは、そして本当の生活というものは、彫刻においてノミの運びが横にも縦にもそれる自由がありながら、なおかつそのノミが正しい輪郭を穿ってゆくところに美がでるように、生活において不正にそれる自由がありながらなおかつ正しい生き方をしてゆくところにあるのである。」 谷口雅春『生命の実相 第14巻 倫理篇下・教育篇』 日本教文社より

