昨日はわたしの勤め先 (カトリック系大学)の卒業式でした。どこかの大ホールを借りて行われる大学全体の式はサボったので、そこに「君が代・日の丸」があったのかどうか知らない(たぶん無いだろう…、自由参加の卒業ミサはあった)ですが、その後の学科集会・在校生との茶話会・パーティーでは(もちろん君が代・日の丸は全くありませんが)、思い出話や贈る言葉・歌・談笑で、別れの時を皆で楽しく麗しく分かち合いました。「卒業」という別れの時をこういうふうになごやかに祝えて(東京の公立学校とくらべて)幸いだと思いました。教育というものは、人間同士の出会いと共同の学びを通して、ものごとについての知見を広めるという、本来喜ばしい分かち合いの出来事なのだから、その中心にあるのはやっぱり自由です。そこに突然、人間同士を引き裂く強制が侵入してきて、交わりの場を冷たく凍りつかせてしまうなら、それだけでも「君が代・日の丸」は教育の場にふさわしくありません。愛国心は、よい思い出から自ずと育まれるのだから、シンボルを掲げるだけの儀式は要りません。日本の教育で一番欠けているのは、健全な政治教育と宗教教育だとは思いますが、宗教はひとつ間違えれば、戦前の国家神道教育やオームの場合のように、人を戦争や殺人にまで追い込むマインド・コントロールになってしまいます。だから、宗教教育を担当しているわたしにとっても「教育の場には、問答無用の強制があってはならない。それは、学生が自分で判断するための材料が提供される場である」という根津さんの考えは、きわめて重大な自戒です。「君が代・日の丸」、あるいは「十字架」ですらあっても、人間同士の交わりを欠いた単なる一つのシンボルだけで人の心を強制しようというのであれば、それは教育でも正しい宣教でもありえません!以下、「君が代」不起立を今年もつらぬいた根津公子さんが、前任立川二中での教え子からもらったメールについて伝えているお便りの転載です。
根津公子さんが受け取った卒業生からのメール

