昨日の東京都の君が代不起立・不伴奏処分で、最も重い「停職6か月」の処分を言いわたされた根津公子さんからのメール転載です。決然と、映画にまでご自分をさらされた方とはいえ、もともとプライベートな生活をふつうにおくっておられた先生なのだから、役所から呼び出されて、「免職最後通牒」ともいえる処分をあらためて受けたら、個人としてはやはりショックもあるし、うろたえるだろうな、と思いつつYou-Tubeの画面を見ていました。涙がサメザメと流れました。そこまで、やってくださるとは…。都教委の行為は正気の沙汰ではありません。誰でも、5才の子どもでも、馬鹿げたことであるのはわかります。司法を無視する違法行為である以前に、他者にいやなことを強要する暴力そのもの、人権感覚ゼロの「恥」以外のなにものでもありません。知事が変われば、役人は、またまったく別の態度をとるのでしょうが、その情けない人々は別としても、選挙の方はやっぱり石原優勢だとか…。人間とは、どこまでも愚かだし、どんな悪魔的なこともし始めます。アウシュビッツへの道もこうして始まったのでしょう。アジア中での日本軍の殺戮、硫黄島も沖縄、広島・長崎…への道も同じだったはずなのに。
根津公子さんのメール・被処分者の会ニュース(3/30)
2007年03月31日
根津公子さんのメール
従軍慰安婦問題と東京都教員弾圧の根は同じ
根津公子さんは、停職6ヶ月。ということは、来年は免職ということらしい。今年は町田市の中学校は追い出されて、半年後に養護学校に配属されるとのこと。都知事選挙ですが、どうしてこんなひどいことが争点にもならず、人々の心にも届かないのでしょう…?
レイバーネットの報告(動画・レポートなど)
2007年03月30日
世界人権宣言
谷川俊太郎訳「世界人権宣言」(アムネスティ・インターナショナル)
外務省・仮訳文「世界人権宣言」
今一番大切な国民投票法についての報道が全然足りない!
今日の朝日新聞によると、教育再生会議は、「道徳」を成績評価できる科目にしたいようですね。教科書までつくって。改悪教育基本法の第二条「教育目標」、とりわけ「愛国心」の押しつけ・思想統制を具体化しようというわけでしょう。ほんとうに「執念のとりこ」としか思えないしつこさです。こういう教育(?)が実施されても、日本の生徒・学生が善い人間に育ち、世界の人々からで愛されるようになるとはとうてい思えません。道徳教育というのは、教科書を丸覚えして思ってもいない答案でよい点数をとることではなく、真・善・美を味わい見極め、どう生きていったらよいのかを自分で考え判断できるようになることでしょう。ほんとうにおかしいです。朝日新聞は、「天声人語」で現政権に対してちょこっとつぶやいてはいましたが、今一番大切な国民投票法についての報道は、あいかわらず全然足りないですね。
国民投票法−拙速は許されない(笠井亮議員サイト)、20%の賛成で改憲をゆるしてよいのか(花・髪切と思考の浮遊空間)、改憲手続き法案・ごり押しさせない・衆院議面で要請行動(しんぶん赤旗 3/30)、朝日「天声人語」(3/30)、憲法改正の国民投票法案、9割が「議論が不十分」と回答(JANJAN 3/30)
2007年03月29日
村野瀬玲奈さんのリンク集
村野瀬玲奈さんのリンク集
「国民投票法案」、前のめり姿勢に危うさ
民族、国家としての倫理観、品位と尊厳…
2007年03月28日
■「君が代」ピアノ伴奏判決・法学者声明(第二次公表)
「君が代」ピアノ伴奏判決・法学者声明(第二次公表)
転載【お手伝いください!】新潟と大阪で手が空いている方いませんか(公聴会・街頭アンケート)
新刊:『信教の自由と政教分離』
信教の自由と政教分離 (日本カトリック司教協議会 社会司教委員会)
2007年03月27日
やっぱり亡霊がとりついている
格差に苦しむ地方や、アジア諸国、野党などが何を言っても全く馬耳東風なのに、アメリカの大新聞や政府が一言なにか言えばとたんに米つきバッタみたいにペコペコする首相というのは、いったい誰のための人なのでしょう。政権半年、内閣からでてきたのは汚い話ばかりだったではないですか。国の最高指導者でありながら、事の是非ではなく、目くらましで国民をだましながらなんでもかんでも数の力で押し通す政治は、真理に対して不誠実であるだけでなく、ほんとうに将来の国民に対して大罪を重ねていると思います。このままでは、日本が、嘘が平気でまかり通る国になりますね。アメリカも近隣諸国もそれを見抜いているのに、国民だけがさっぱりおめでたいままです。大マスコミも加担していますが。 国民投票法案「与党修正案」が提出された(辻元WEB 3/27) 改憲手続法(国民投票法案)についての報道機関への呼びかけ(自由法曹団 3/23) 「民主国家リーダーとして恥ずかしい」ワシントン・ポスト安倍氏を批判 (韓国・中央日報 3/26) 社説:安倍政権 半年 強気の陰に危うさ漂う (秋田さきがけ新聞 3/27) 安倍政権半年・県民の声に耳を傾けたか(沖縄タイムス社説 3/26)
「国民投票法案」投票率の問題
山陰新聞3月27日には島根県弁護士会長・吾郷計宜氏の記事が載っています。
「私は、一番の問題点は、法案が、投票率が何%であったとしても全く問題とせず、賛成投票の数が投票総数の過半数に達した場合には憲法改正についての国民の承諾があったものとしている点であると考えている。」と同氏は述べておられますが、確かに改憲投票において投票率を無視して(憲法96条でいう)国民投票における「過半数」を考えるということは、民主主義の有意味性にかかわってくる大問題であり、氏の「私は、国民投票には、最低投票率または絶対投票率を設けるべきであると考える」という御主張はきわめてまっとうな正論であり、「国民投票法案」のひとつの大きな欠陥をついていると思います。
「国民投票法案」、公務員の組織運動に行政罰
2007年03月26日
首相・安倍晋三を訴える、その後
「杉並ママ」の原告体験記 (JANJAN 3/25)
教育基本法改悪、その後
「教育基本法改悪、その後」(メルキゼデクの会・講演会)。東京「君が代・日の丸」訴訟のニュース
2007年03月25日
「君が代不起立裁判」傍聴報告
「君が代不起立裁判」傍聴報告 (JANJAN 3/25)
公務員・教員の「国民投票運動」の制限
しかし賛成派の小林節・慶大教授の次の言葉にはどうにも違和感があります。
「公務員・教員の運動制限については…中略…。表現の自由の原則に従うべきだが、子どもたちに『明日にも戦争になる』と教える教師も出かねない」として〔教員の「国民投票運動」に関して〕罰則のない訓示規定は認めていいとする。」
ここで申し上げたいのは@仮にそうした意見を述べる教員が多数いたとして、果たしてそれにより憲法改正においてマイナス効果が生じるのか。同時に積極的に与党案に賛成する意見を述べる教員も存在することが予想されることからも、改憲に際して生徒・学生にはさまざまな意見・論点が存在することが是非知らされるべきで、こうした規制は一切かけられるべきではないA「明日にも戦争に云々」ということばは9条改憲を念頭においていると思われるが、改憲は9条だけの問題ではないB学生・生徒の自律的判断力が疑われるのかもしれないが、そもそも投票権は子どもにはないC小林教授の見解はそもそも教員の知的資質を過小評価しているのではないか続きを読む
「国民投票法案」これが自民党の本音ですね!!
老兵は消え去るのみ、真の言葉は死んでも生きる…
安陪首相とはあまり年も違わず同世代ともいえるわたしからすると、彼のような歴史観や政治信条をもつ人というのは、 同じ時代を生きてきた者の中ではきわめて異例なのではないかと思います。戦後の混乱が一段落して、高度成長が始まる前の昭和三〇年代、あの『三丁目の夕陽』の時代では、みな貧しいながらも平和になった日本社会をありがたいと思っていたと思います。親父や母親と同世代である学校の先生たちも、戦争はもうこりごりと実感していたからでしょう、平和や民主主義を大切にしていくという情熱で教育にあたっていたと思います。そこで受けた影響がわたしなどの場合には、人間形成の芯の部分にしみ込んでいるのですが…。アベ君は、財閥系のおぼっちゃん学校に通っていたから、三丁目の夕陽の世界なんて知らないのでしょうか?ほんとにヘンです。でも政治家というのは、少数者の特定の価値観を大多数の人々に押しつけることではなく、大多数の人々の思いをくんでそれに奉仕することが仕事なのではないでしょうか?すっかりアベ将軍の後ろ盾になっている水戸のご老公ならぬ群馬のナカソネ大勲位殿も、特権階級が上から自分の考えを押しつけることが政治だと思っているようですね。同い年の「9条の会」の加藤周一さんとは大違いだ。
澤地久枝著『発信する声』を読んで〜「平和な戦後社会」に生まれた1人として (JANJAN 3/24)
慰安婦問題でトバッチリ喰らった中曽根元首相 (JANJAN 3/24)
半藤一利さんに聞いた(『マガジン9条』 3/21 第101号「この人に聞きたい」)
2007年03月24日
差別の中の差別 マイノリティ女性の実態明らかに
差別の中の差別 マイノリティ女性の実態明らかに (朝鮮新報 3/23)
牙をむき出し、「立法的詐術」で国民を欺き悪法ぞろぞろ
「支持率が落ち、参院選後も(首相を)続けられるかどうか分からないから、強行採決でも何でもやって、参院選で大負けしても自分たちの野望は達成できる、そういう気配が国会に充満しているそうです」、とJANJANのひらのゆきこ記者はいつもながらのていねいな記事の中で述べています。この2週間で、改憲手続き法案(国民投票法案)、米軍再編関連法案、教育関連法案などの悪法がゾロゾロ出てきています。教育基本法改悪と防衛省発足で始まったことが、同じ手法(トリック的言い回しで国民には良いことのように見せかけながら、ほんとうの意図が気づかれないうちにすべてを強権的に決めてしまう)で強行されていきます。社民・共産が対抗勢力として機能しえないことがほんとうに歯がゆいです。
中央公聴会の、「公述人」が公募されます (辻元WEB 3/23)
拙速な公聴会日程にNO! (辻元WEB 3/23)
「共謀罪」反対訴えて衆院議員会館で市民、識者が集会 (JANJAN 3/23)
2007年03月23日
やっぱり卒業式に「君が代・日の丸」なんていらない!
昨日はわたしの勤め先 (カトリック系大学)の卒業式でした。どこかの大ホールを借りて行われる大学全体の式はサボったので、そこに「君が代・日の丸」があったのかどうか知らない(たぶん無いだろう…、自由参加の卒業ミサはあった)ですが、その後の学科集会・在校生との茶話会・パーティーでは(もちろん君が代・日の丸は全くありませんが)、思い出話や贈る言葉・歌・談笑で、別れの時を皆で楽しく麗しく分かち合いました。「卒業」という別れの時をこういうふうになごやかに祝えて(東京の公立学校とくらべて)幸いだと思いました。教育というものは、人間同士の出会いと共同の学びを通して、ものごとについての知見を広めるという、本来喜ばしい分かち合いの出来事なのだから、その中心にあるのはやっぱり自由です。そこに突然、人間同士を引き裂く強制が侵入してきて、交わりの場を冷たく凍りつかせてしまうなら、それだけでも「君が代・日の丸」は教育の場にふさわしくありません。愛国心は、よい思い出から自ずと育まれるのだから、シンボルを掲げるだけの儀式は要りません。日本の教育で一番欠けているのは、健全な政治教育と宗教教育だとは思いますが、宗教はひとつ間違えれば、戦前の国家神道教育やオームの場合のように、人を戦争や殺人にまで追い込むマインド・コントロールになってしまいます。だから、宗教教育を担当しているわたしにとっても「教育の場には、問答無用の強制があってはならない。それは、学生が自分で判断するための材料が提供される場である」という根津さんの考えは、きわめて重大な自戒です。「君が代・日の丸」、あるいは「十字架」ですらあっても、人間同士の交わりを欠いた単なる一つのシンボルだけで人の心を強制しようというのであれば、それは教育でも正しい宣教でもありえません!以下、「君が代」不起立を今年もつらぬいた根津公子さんが、前任立川二中での教え子からもらったメールについて伝えているお便りの転載です。
根津公子さんが受け取った卒業生からのメール
2007年03月22日
国民投票法の中身を知っていますか
本当は恐ろしい国民投票法
日本国憲法調査特別委員会公聴会
教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」(あんころ)呼びかけ人大内裕和さんからのメッセージ
本ブログが始まったきっかけでもある「あんころ」の呼びかけ人のひとり大内裕和さんから、改悪教育基本法の実体化→憲法改悪の流れを阻止するようにとのメッセージが送られています…
憂鬱な東京の今年の卒業式
クビまであと一年との思いよぎる―根津公子(レイバーネット)
根津さん・河原井さん不起立貫く
2007年03月21日
五島のキリスト教
お休みいただいて長崎県五島列島を巡礼してきました。怒りとストレスのたまるキナくさい政治の話からしばし解放されて、美しい海と空と島の人々の純朴な信仰にふれてきて、おおいに癒されました。安陪氏が教育基本法を変えたり、憲法を変えようなんてことを言い出さなければ、この平和の慰めにひたっていられるのですが…。しかし、世界遺産登録のリストにも記載された五島の美しいカトリック教会も、もとをたどれば政治の産物です。長崎・出津(遠藤周作『沈黙』の舞台)から江戸時代の後期に、迫害と貧困から逃れるために、潜伏キリシタンが集団で移住したのが現在に続く五島のカトリックの始まりだからです。信仰の安息の地を五島に求めても、後から来たこのキリシタンたちに残されていたのは、辺鄙でやせた土地ばかりでした。今も、よくぞここに住み着いたものだと驚くような奥地にカトリックの集落が点々とあります。明治の初めには長崎・浦上と同様、五島でもキリシタンが捕らえられ責められました。特に、久賀(ひさか)島での迫害は過酷で、12畳の家に200人が8ヶ月も閉じ込められて、小さな子どもをはじめ43人が殺されるという「牢屋の窄」(ろうやのさこ)と呼ばれる殉教事件も起こりました。今も五島の教会は美しく深い信仰を輝かせていますが、若者たちは皆島からはなれて都会に移り住みます。残されるのはご老人ばかりです。島の、とくに教会の将来については、あまり明るい話は聞かれません。昨日、東京に帰ってきて、人の多さ、五島の人々のおおらかさと比べると、ぎすぎすした険しい表情の人々を見て思いました…。この人々にも、元々は美しいふるさとがあったのだろうに…。何故、日本はもっと地方を大切にしないのだろう…?人間らしい生活をふるさとで送れる、ほんとうの「美しい国」をどうしてつくろうとしないのだろう…?今の安陪氏をはじめとする政権の方向はまちがいなく、地方は切り捨て、ますます全ての力を大都会(特に東京、つまり勝ち組)に集中させるものですね。…しょうがない、また安陪とたたかわなくては…。
「国民投票法案」これでは賛成できません!!
記事によると「投票方式は投票用紙に印刷された「賛成」「反対」のどちらかに「○」を付け、白票は有効投票に加えないと規定。無料提供するテレビなどのCM枠は原則として賛成、反対両派に同じ時間を提供するとした。テレビなどの有料スポットCMは投票期日の二週間前から禁止。公務員や教職員の地位利用による投票運動も禁止とし、懲戒は国家公務員法などに準ずるものとした。」とのことです。
気になるのは@改憲条文・項目ごとに投票を行うのか、一括投票するのか明らかでない点、
A教員や公務員が職務上の地位を利用して「国民投票運動」することが認められない点、
Bその代わりに政党によるテレビを通じての「投票運動」が認められている点、です。
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「国民投票法案」は4月中に衆院通過!?
『公』の論理の必要な領域
民営化による効率化も、必要な面もあるのかもしれませんが、そうした市場原理につきない、お金にはかえられないものが、教育や、病気になったときの医療、介護、福祉などの分野にはあるように思われます。また、だからこそ、それらは、これまで公の領域であったわけです。
歴史を振り返ってみると、資本主義の発達で広がった格差を是正して最低限度の生存権をすべてのひとに保証すべきであるという必要性から社会主義的な公共政策が取り入れられてきたわけですが、それはある意味では資本主義国家にとって共産主義の広がりを抑える役目をも果たしていたのかもしれません。共産主義の脅威が薄れたとみえたとたんに、社会保障が切り捨てられていくようでは、歴史がまたあともどりしてしまうのではないでしょうか。自転車が、右にも左にもひどく傾かないでバランスを取る限りは前に進んでいけるように、社会も、前進していくためには、やはり「自由」や「市場原理」のみならず、「平等」や「公の原理」の必要な領域もあることを再確認すべきではないかと考えます。
2007年03月20日
日本の右翼とCIA
2007年03月19日
「国民投票法案」には充分吟味すべき問題点もあるのではないでしょうか。
「国民投票法案、来月中旬衆院通過へ」と報道されています。
「国民投票法」の難しさ
記事では触れられていませんが、教員に憲法改正案に賛成か反対か職務上の地位を利用して表明することを禁じる「国民投票運動」禁止の件はどうなったのでしょうか…。
2007年03月18日
勇気づけられる記事ー「84歳の修士学位」
さいたま市に在住の84歳の宇都宮明さんが、聖学院大学院から政治学修士の学位を授与されたことを報ずる丁寧な記事が、卒業式の写真入りで掲載されていました。宇都宮さんは元警察官で、55歳で副検事になる試験を受けて合格した後は、70歳の定年まで簡易裁判所で訴訟を指揮しておられたそうです。2000年の「密室の談合」での森首相誕生の経緯をみて「日本の政治は一体どうなっているんだ」と政治学に興味を抱いた宇都宮さんは、放送大学を経て、一昨年、自宅から通えて、直接先生に質問をぶつけることのできる聖学院に入学。最後に卒業した学校は、家庭が貧しかったこともあり尋常高等小学校でしたが、経歴等から「大卒相当」と認められて院生に。戦時中、徴用された経験を持ち、「昔の日本にもどってはだめ。やはり平和国家に徹しないといけない」との想いを胸に、これから進まれる博士課程では、「大正デモクラシーからなぜ軍国主義、対外膨張主義に走ったか」を掘り下げたいと意欲を燃やしておられるそうです。また、指導教授も戦前の日本を知る80歳の方。「リベラリズムの研究を通じて、保守化を強める政治の現状を一緒に勉強したい」と「エールを送」っておられるそうです。
戦争をぐぐりぬけて、今の日本の繁栄を築いてこられた70代、80代の方のパワーには、いつも尊敬の念を覚えずにはいられません。この夕刊の記事を読んで、ますますこの世代の方々のご健康と、ご活躍を期待したいおもいでいっぱいになりました。戦後うまれの私も、宇都宮さんを見習って、まだまだ頑張らなくては・・。
2007年03月17日
行為の規範について
まず、「客観的に存立する規範」を、ここでは「法」と呼んでいます。これは、「公共的な社会の外的な枠組み」であり、これがないと「人間的社会の存立が危うくされる」ので、「きわめて重要な人間生活の基盤」であると考えられます。しかし、「こうした実定的な法が、つねに正しいとは限らない」わけです。実際、ヨーロッパやアメリカの歴史をみても、「既存の法的秩序への大規模な反逆のうちから」、「現代の自由主義と民主主義の精神は発祥した」といえます。
次に、道徳は、ここでは「人間の内面から、あるべき人倫の規範として自覚されてくる、内的立法の根拠、もしくは人間の行為を主導すべき根本的な信条のこと」と定義されます。この道徳が、「法に、その存在根拠を与えるもの」であると考えられます。
しかし、さらに掘り下げると、「人間の道義が成り立つのは、その根底に、」「存在の理法の自覚があるから」であると考えられます。ソフォクレスの『アンティゴネ』の中の、国王の禁令を犯しても「神のおきて」に従うのだといって兄の遺体を埋葬して死刑になったアンティゴネの行動にみられるように、「『神の掟』の自覚」あるいは「存在の理法の自覚」というものが人倫の掟の根底には現存していると考えられます。「およそ、道徳や規律や律法の成立の根源には、それが存在の定めである、という自覚がなければならない。存在の『定め(ネメイン)』のうちからこそ、『法(ノモス)』も生じうるのだと、ハイデッガーは指摘した」とされています。
(渡邊二郎『現代人のための哲学』ちくま学芸文庫198−202ページ参照)
法も秩序も、もとは神の掟から流れてくることをおもえば、神の掟に従おうとするキリスト者と、国家の存在は、ほんとに国家の法が存在の理法にかなったものであれば、けっして対立することはないのではないかなあとおもったことでした。皆様は、どうお考えになられるでしょうか・・。