2007年02月15日
「戦争は経済の問題」か?(OhmyNews 2/15)
日の丸・君が代処分撤回訴訟提訴(JANJAN 2/15)
「不都合な真実」
直接には憲法や教育基本法と関係ないかもしれませんが、広い意味でそうした人間の営みを支えてくれている空や大地の存在も、今、まさに危機に瀕しています。温暖化の問題は、特にアメリカでは、政治的に「不都合な真実」として顧みられないように情報操作されているようです。映画にもなりましたが、科学的な根拠のある温暖化の真実をわかりやすく伝えてくれる本が出版されているので、ぜひ紹介させていただきたく、またまた投稿させていただきました。
「不都合な真実」 アル・ゴア 著 枝廣淳子 訳 ランダムハウス講談社
『1984年』
『1984年』(“Nineteen Eighty-four”)
イギリスの小説家、G.オーウェルの風刺的未来小説。1949年刊。前作『動物農場』では動物寓話の形によって、スターリンの独裁政治を痛烈に批判したが、『1984年』でもこのテーマをさらに徹底的に追及し、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの三超大国が対立する1984年の世界を描いている。「偉大な兄弟」という独裁者が君臨するオセアニアでは、「平和省」が戦争を、「愛省」が思想統制を遂行し、「豊富省」が窮乏をもたらしている。一切の情報、歴史は「真理省」によって独裁者の思うままに改竄、抹消、捏造されて、国民の行動はテレスクリーンに絶えず映し出され、思考も、権力者による思想統制に都合のよいようにつくられた新言語である「ニュースピーク」という枠にはめこまれ、政府の思うままにあやつられてしまう。作者はここで、真理省に勤務する下級官吏の主人公ウィンストン・スミスの運命を通して、恐るべき未来全体主義への絶望感を表現している(『ブリタニカ国際大百科事典』より)
ご参考までに。
安倍首相の政権構想「美しい国、日本」は失礼ながらこの「ニュースピーク」に該当するものを感じてしまうのですが…。オーウェルの小説では「戦争は平和である…」といったプロパガンダが語られていた記憶があります。
教育基本法改定に抗する大学人有志のアピール集会
今日(昨年の12月15日)は東大教育学部で「(教育基本法)改定に抗する大学人有志のアピール」集会に出ました。こうした集会は2度目とのことです。私自身としては、正直なところ参加が遅きに失してしまった感じです。80年代以降最近までの病理を含みながらも表向き「安定」した世の中で、私たちはある意味で「平和ぼけ」してしまっていたのかも知れません。今日の集会でも「ようやく皆さん最近おしりに火がついたのではないでしょうか」という発言がありましたが、多くの人の偽らざる本音かと思います。ただ、いま、教育基本法のみならず、確実に予想される改憲作業に向けて、大学人の連帯の運動が生じてきているのは希望が持てると思いました。私も微力ながら働いてゆきたいと思います。
大学人の「共同アピール」ではいくつかの論点が挙げられています。@2条で道徳を法的に強制することが近代法の原則に反し、個人の内心に国家が介入することになる(この点に関しては自然法論の井立場に立つ井川は法と道徳の内的連関を認めますが、2条に関しては国民的コンセンサスを形成できていないという手続き上の瑕疵が少なくともあると思っています)。A教育への国家統制の強化B大学の自由と自治への侵害C「公=国家・政府」という精神の強要(そうではなくトランスナショナルな市民的公共性を涵養すべしという趣旨です)D社会的格差の拡大による「個の精神」の否定(社会的格差の拡大という論点は井川も特に重要に思います)E平和憲法との切断(「教育基本法改正案は自民の新憲法草案に適合している」という答弁があったとか。だとすると現日本国憲法ではなくまだ存在しない改正法の「精神」に基づいて改定教育基本法は制定されたわけで、すでに存在する現行憲法に合致するのが下位の法律には本質的に要請されるという立憲主義の本質に反することになります)。
「空気支配」
「ニート大学現代精神学部」というパロディのウェッブページhttp://www.mt.tama.hosei.ac.jp/~tyabe/neet/gakubu/a-seisin.htmlをみていたら、「ニート」とならんで「空気が読めない」ことが社会的不適応として槍玉に挙げられているようです。
しかし、この「空気が読めないこと」をバッシングするメンタリティというのはかなり危険なのではないでしょうか。山本七平氏の一連の著作のなかに『「空気」の研究』というのがありましたが、無謀な太平洋戦争に突入し破局まで進んだのは、当時の日本社会における意思決定の場面での「空気支配」であったと論じられていた記憶があります。「場の空気」で行動し、論理的にいかなる行動が合理的か考えるのではなく、またお互いに言葉を交わして意思疎通し、約束を行うのでもないこの「空気支配」ですが、これは日本的メンタリティとして正当化できるものではないと私は思います。言葉を重んずるのは西洋的で、日本人はもっと何気ない感覚を大事にするのだなどとおっしゃる方もいますが、たしかに人間の世界にはエートス(倫理的性情とか訳されますが、ふるまいのこと)やパトス(情緒)の次元も大事かと思いますが、同時にロゴス(言葉・論理)の次元は民族の如何を超えて重要なのではないかと思います。