2007年02月14日
今週の「マガジン9条」インタビュー:小山内美江子氏
福島みずほのたのしいトークバトル
2月26日(月)『トークバトル「みずほVS ひとみ」Cheer up! 元気な女が東京を変える!』…だそうです。保坂展人氏、辻元清美氏もご一緒らしい。
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「国民主権」とは、何なのだろうか?(PJニュース)
駒沢大学公開シンポジウム:日本仏教の現状と課題―社会に開かれた仏教をめざして―
さらに、例えば靖国問題などのように、宗教と政治が複雑に関連する問題の存在は、政教分離の原則の下にあってもなお、宗教が政治に対して無関心ではいられなくなっていることを示唆しており、日本仏教界の対応のあり方の再考にもつながると思われる。」
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人間力を高める教育改革を(JANJAN 2/13 )
「自由」の類比的多義性
前のライムンド井川の記事で舌足らずだった点を補足します。
人々の放恣な「自由」の追求が全体主義社会へと転化するという場合の「自由」は「悪い」意味で用いられた「自由」です。 それは人間の自由な選択能力、「自由意志」を前提にしています。「自由意志」自体は善・悪をある意味で超越するというのか、むしろ道徳的善悪を成立せしめる一つの根拠であると思います。
また教育の目的は、教育を受ける者の「自由」の獲得にあるという場合、また市民社会における(社会的)「自由」を守る公務員の使命という場合、「よい」意味で用いられています。 「自由」の獲得という場合は、存在の完全性というのとほぼ同義でしょう。そのものが在るべくあるということです。社会的自由の方は「自由意志」の社会的次元への拡がりをさしているものといえると思います。
「自由」概念の「多義性」ということは(政治・法)哲学において夙に指摘されるところと理解しています。そしてそれぞれの「自由」の用語法の背景にはそれぞれ一定の哲学が潜んでいるように思います。
「自由」の「多義性」はしかしながら、厳密に言えば自由概念Aと自由概念Bの間にまったく通義性のない異義的な概念でもなく、かといってすべての自由概念が同義的な概念でもない、一定の核となる内容を基準とした「類比analogia概念」と理解するべきでないかと思います。
残念ながら(不勉強で)私はまだこの自由概念につき自分なりに納得できる一般理論を見出せていません。「放恣な自由」という場合、人間の自由選択能力をあるべき規範から外れた仕方で用いているという意味があるでしょう。また教育の目的が自由の獲得にあるという場合、それは人間存在のあるべき目的が実現された状態という意味が含まれているように思います。前者では自然法倫理学の観点から言えば、人間本性の法則(lex naturalis)から外れた仕方で自由を行使し、その結果人間としての存在を喪失しているという意味でしょう。後者では逆にこの法則に主体的に従うことにより、真に人間に「なる」ことであるといえるでしょう。
この問題にはヨハネス・メスナーという社会倫理学者の大著『自然法』(水波・栗城・野尻訳、創文社)が本格的に取り組んでいます。教育に関してはジャック・マリタン『人間教育論』(最近長崎純心大の荒木慎一郎先生による新訳が出ました)があります。
内心の自由?(つづき)
「真に存在するものである永遠なるもの」を愛するということを私が申し上げていましたが、実は愛国心ということが主張される場合、暗黙のうちに問題になっていることの一つはこれではないかと思えてきました。すなわち「愛」の対象の個別的・可変的なものではない永遠性の問題です。
君が代の歌詞はまさしく天皇を中心とする「国体」が永遠なるものであることをうたっているわけですが、じつは永遠なるものを求めるという人間本性の資質はここでも働いているのではないか、ただそれが誤ったところに求められている(すなわち時間的国家に)のではないかと思います。
しかし人間はこの世にある限り、この「永遠なるもの」を全き姿で直観できないがゆえに、これがいわば具体化(受肉)した姿を「国家」ないし「国体」!として求めるのではないか、こう考えると実はナショナリズムの問題はキリスト教の問題と重なる部分があるのではないかとすら思えます。もちろん時間的なこの世の国は神そのものとは異なりますし、国民国家というのは近代的産物であり、近代個人主義ともある意味で親近性をもつもので、この世の国という次元でも視野を世界国家へと広げねばならないと思いますが。
「世界国家」といえば、いわゆる護憲派も最近の改憲派も国民国家としての日本という次元で視野が完結していて、人類の法意識の発展、それが定着したものと見ることが出来るもろもろの国際的な人権宣言へのまなざしが希薄なように感じています。
内心の自由?
1999年に国旗国歌法が制定され、日の丸君が代の法的地位が確定されました。また東京都では2003年10月23日の都教育委員会の通達により、都立高校での式典時に日の丸掲揚・君が代斉唱が職務命令として行われるようになったわけです。そしてこの職務命令に反する教員には戒告や減給、再雇用拒否といったサンクションが科されるようになりました(また都立大学が「首都大学東京」とかいう変な名前の大学へと改組され、人文系の学科は大幅に切り捨てられつつあり、一連のプロセスの過程で教員の転籍が相次いでいるという話を聞いています)。
日の丸・君が代強制が内面的な精神的自由権(内心の自由)の侵害でないと東京都がもし主張するならば、考えられる正当化の論理としては@精神的自由権も外面にあらわれる限りで制約を受ける(これは憲法学で表現の自由のようないわゆる「外面的精神的自由権」に関して通説の取るところです)。A公益に奉仕する公務員に本質的に付随する制約である。こうした論点が考えうるように思います(公法学上のいわゆる「特別権力関係論」《国家と「特別権力関係」にある人間がいるという戦前に盛んであったといわれる説》や「部分社会論」《学校などは通常の社会とは異なった性格を持つ「部分社会」であるという説》は採らないにせよ)。
一点目からいうと、精神的な自由において、「内面」「外面」という区別がいかにして成り立ちうるのか、実は問題ではないかと思います。人間の精神の作用において内面性、外面性という区別が成り立つという二元論的な前提は実は問題を含んでいるのではないかと感じています。内心「思っている」だけなら自由だけれど、言葉や態度にあらわすということが「外面的な」問題であり、そこには制約がある、という発想は一見常識的ではあるけれども、検討の余地があるのではないのか、と感じています。この辺を理論的に今後つめてみたいと思っています。あるいはこの区別を採ったとしても、純粋に心のうちにとどめている「精神の自由」の意義はいかにとも思います。
二点目について言うと(むしろこちらが強調したい論点です)、公共の福祉ということには実は自由ということが本質的に重要な部分として含まれてくる、それも精神の自由ということになればなおさら、と思います。ですから公務員の使命はむしろ民主社会における(精神の)自由を守ることにあるのではないかとも思います。教育の目的が(真の意味で)生徒の「自由」(もちろんやりたいことを何でもできるという意味ではないです)の獲得を援助することにあるのならば、かような動きは本末転倒と言わざるを得ないのではないかと思います。
放恣な「自由」の追求が、裏返って全体主義に行き着くということは第二次大戦当時の大衆社会と全体主義との連関についてすでに多くの人が指摘しているように思います。その根底には両者のありように共通する「人間の存在様態の質料化」(とトマス主義哲学者は言いますが)があり、実は考えねばならない問題はこの人間存在の様態の向け変え(形相化)にあるのではないかとも思います。この「向け変え」はいかにしてなしうるのか、最近考えますが、やはり個別的な諸善を超えてそれを成立せしめている「真に存在するもの」である永遠なものを愛すること、あるいはそれを射程に含みつつも人間本性の存在法則である「自然法(lex naturalis)」に従って生きる、というところに行き着くのかなどと考えます。